嗚呼げえむ人生 ↓動画を作るとゲームする時間が減ることに気付いて更新停止中

東日本大震災

この話題にはどうしても触れておかねばなるまい。

ゲームの話題もそこそこに、もちろん楽しい話になるはずもないので、暗い話が苦手な方は今回は読み飛ばしすることを推奨する。今回は日記のようなものである。

三国志大戦にモンハンと、かなりの時間をその二つにかけていた為、PS3を買ってもほぼトルネ専用機、Xbox360を中古で買ったものの何もプレイせず売ってしまうくらい遊ぶものは片寄っていた。仕事の方もだいぶ慌ただしく、六本木から新宿、五反田へと会社と業務内容を変えながら転々としていた。

その日はとあるゲームのスクリプター(ステージの調整、敵の配置を担当する役)としてPS3の開発に関わっていた。

忘れもしない正午過ぎ、少し遅めの昼食をとった後、いつもより大きめの揺れがきてすぐ地震だと気付いた。他の担当ステージにアドバイスしていた私は他人の席に移動していて、目の前には山のように積まれた電撃プレイステーションがあったので、とりあえず倒れないようそれを抱えていたのだが、一向に揺れが収まる気配がない。こうなってくると人は案外何もできなくなるもので、冷静になりつつ周囲の状態、怪我をしたり機材が壊れそうにないか等、色々なことを考えながら周囲を見回すが揺れが大きすぎて身動きが取れないのである。眼の前の雑誌のタワー(約1mくらい)にしても、放っておいて良さそうだがやはり散乱すると逃げる時の邪魔になるし、他に上から倒れかかってきたり、落ちてきたりするようなものは無かったので頭を守ったり抱える必要もなかったのだ。そうして数分間揺れに耐えていたところ、目の前の壁に「ビシィッッッ!!!」と大きな音と共に亀裂が入った。そこはビル中央に位置する壁面で中央には階段とエレベーターがあり、私がいる場所はビル7階のうち2階部分だった。正直、死を覚悟したことは何度かあるが、これもそのひとつだ。(ちなみに一番は下り坂を結構なスピードで自転車で降りてる時にブレーキが壊れ、車通りの多い道路に飛び出して倒れ込んだ目の前で車が止まった時である)

色々と考えてはいたが、ビルの2階は一番負荷がかかる階層であり目の前の亀裂を目の辺りにしたことで、ビルが潰れたらどうしようもない。お手上げだなぁ…と死を覚悟した瞬間ではあったが、一応まだ時間はあったので他に脱出ルートはないか、逃げるなら今のうちか、と考えているうちになんとか揺れは収まってくれたのである。そこからは慎重に亀裂の入った壁のある扉から中央の階段へと向かい、外へと慌てずしかし急ぎつつ出た。2階部分であの揺れだったのだから、上の階層の人は相当な揺れだったのだろう。何人かの人が後からひっきりなしに出てきたが、慌ててはいるがパニックを起こした様子もなく、さすが地震になれてる人たちだなぁ…と関心したものである。そうこうして余震やビルの状態も問題がなさそうだったので開発室へみんな戻っていった。そこからは当然、通常業務に戻れるはずもなく色々な情報を探っていたのだが、東京は余波であり震源地が遠く仙台方面だとその時に気付いた。仙台には兄夫婦が住んでおり、第三子の出産が控えた時期だったので母親もその時は身の回りの世話をしに仙台にいたのだ。当然、電話等は混戦しており全く繋がる気配はない。ひとまず災害時のメールセンターへこちらの無事だけ伝えておいたが、返信は全くなかった。そうこうしている間に、ネット上には津波の映像が次々と流れてくる。テレビも生中継なのか人が飲み込まれる姿すら映っていた。今でこそそんな映像はまったく出てくるはずもないが、当日でそんな津波がくると予想していない人たちはそんな映像が垂れ流しだったのである。こちらはこちらで、地震の影響により交通網も麻痺しており、この日は会社に泊まることになった。駅前は帰宅難民で溢れかえっており、それを横目に見ながら近くにあった「なか卯」で通常営業していることに感謝しつつ夕飯を頂いたのだった。後から知ったのだが、この時は車も渋滞してほとんど進まず、かなりの人が長い道のりを自宅目指して歩いて移動していたようだった。家族の安否も気になるだろうし、当然のことだと思う。

結果から言うと母親と兄夫婦、子供たちは無事だった。津波の警報を聞いてすぐ車で移動したおかげで皆無事だったということだった。ただ3階にあった家の中は水浸し、親と子供共々トラウマは残ってしまったようだった。

翌朝…というか、午前5時くらいに一部ではあるが電車が動き出したとのことだったので、帰れるものは家に帰宅することになった。家にはフィギュア等も飾っていた(トップ画が当時の部屋)ので、大変な状態だろうな…と覚悟していたが、そちらはまったく散乱した様子もなく綺麗なものだった。アパートの1階住みではあったが場所によってこれだけ違うものか、と不思議に思ったものである。その日は結局一睡もとれていなかったので、ようやく家に着いて寝ることにした。ただ余震が続く状況が状況なだけに、普段は見ないニュース番組をつけっぱなしにして寝たので当然寝た気などまったくしなかった。この時のCM自粛にるACジャパンのCM、余震による警報アラートは耳にタコができるほど何度も繰り返し聞くことになる。そして後日、この災害により多くの方が亡くなったことを知った。

それからは計画停電による出社の有無、スケジュールの調整、ビルの改修・補強工事など、できることはとんと少なくなった。あの時、一晩で電車を動けるようにチェック・修繕した方々、また電話回線や通信網などあらゆるインフラを維持してくださった方々には感謝しかない。電気も使えず、約一週間ほどそういう思いで自宅待機していた。また自覚してるかしてないか、かなりのストレスを抱えている気がしていたので、なるべく平静を装いつつ出社が遅くても良いことに会社へ行く前にゲーセンなど通うようにしていた。こういう災害時に一番最初に削られるのは、エンタメ業界の性であることを知っていたからである。ただこういう時だからこそ大事なエンタメであるとも自覚していたので、どうにか伝えていけないかと考えてもいたのだ。

相変わらず計画停電による弊害で、会社から遠い人は電車が動かず出社できる人とできない人が出ていた。私は比較的家から近い方だったので行ける範囲で出社して作業していたのだが、何もできない方が辛かっただろうな…と今では思う。特に九州に一人残っていた父親は、状況をテレビだけでしか得られず、電話もメールも繋がらない不安は相当なものだったと思う。当時は自分の周りのことで一杯一杯だったが、しばらく時間が経ち色々と考える時間がある分の辛さは身をもって知った。

計画停電は約3ヶ月ほど続いたが、納期は変わらなかった。自分の担当はかなり早めに作業していたので、他の人を手伝いつつも作業を進めていたが、どうしても出社できていなかった人の部分が遅れてしまうので結果的に納期はその3ヶ月分のみ遅れても良いことになったのだが、その決断がかなり遅かったのは気になった。またそのタイトルを発売後に担当したアーケードゲームでも経営陣による演出家のゴリ押しがすごく、現場の人にはかなり不評だった。ゲーム性を落としてでも演出を優先するような人物だったため、どうしてもそりが合わなかったのだ。最終的な決定権はクライアントであるバンナムにあったので、演出家のゴリ押しを理解しつつも、バンナム側がゲーム部分については口を出させないよう何度も会議をしていたようだ。そんな手間をかけさせるような経営者に不信感は募るばかりだったので、開発は序盤だったのもありサクッと会社は辞めた。色々と経験したいのが目的で会社に入っていたので、3年は勤めたので頃合いだと思ったのだ。

それから震災も理由のひとつだったのだろう。それから両親が病気により生活が困難になっていく様を知り、また次に勤めていた会社の給料が経営不振により支払われなかったことをきっかけに、自分の夢は諦め実家へと戻ることを決意したのだ。

実は計画停電中も暇だったので、ボーカロイド曲限定のカラオケオフ会に行ったりしていたのだが、その時に知り合った人に被災者、目の前で津波に流される人を見たり助けたりした人の話を聞いて、何もかも流されたというので、色々と家にある防寒具とかあげたりした。その人は国の支援によりなんとか生活できていると言っていた。被災者へは小銭などの募金はしていたが、こういう形で助けになっているのだと目に見えたことはとても良かったと思う。偽善でも何でも、こうして誰かの救いになっていることが、自分の救いだった。

こうして直接の原因ではないが、東日本大震災が実家へ戻るきっかけになったのは確かだ。まずは身近な人を大切にしたいと思う。そして誰かの助けや憩い、笑いなどのプラスになっていれば良いなとSNSを始めたのが現在である。

というわけで、思い出語りは次回で終了です。多くの情報やデータが飛び交うインターネットにおいて、いつかは消えてしまう情報ではあると思いますが、できる範囲で当時のことを伝えていけたらなと思い今回の長文となってしまいました。ここまで興味を持って読んで頂きありがとうございました。

最後は自分が触れてきたエレメカ(メダルやパンチングマシーン等)について、幼少期から駄菓子屋ゲーム博物館に行った話まで振り返ってみたいと思います。

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